2020年4月15日水曜日

「八甲田山」の教訓とは?

北大路欣也のあのセリフ「天は我等を見放した」で有名な映画。原作は新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」だが、これは実際に発生した世界でも最大級の雪山遭難事件を描いていたものだ。

日露戦争直前、日本軍はロシア軍との戦いに備えて冬季訓練を実施する必要があった。青森と弘前の部隊が真冬の八甲田山系に挑み、さてどうなったか?詳細は割愛する。210人編成の青森の部隊のなかで、生還したのはわずか6人。199名遭難死。弘前の部隊は別ルートで27人編成、全員無事に生還。この違いはどこから生じたのか?

映画の中では、装備の不足、指揮系統の混乱、判断の誤り、気象の悪化など、様々な条件が重なりこの遭難事件が発生したことが克明に描写されている。実際の事件から多角的に社会を学ぼうという意思のある方にはぜひご覧いただきたい。

さて今の日本の状況は、どちらかと言えば青森の部隊であろう。安倍首相が隊長では、我等はコロナに潰される。


2020年2月23日日曜日

アメリカ政治史の一幕を描く映画「LBJ」

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが大統領だった当時、副大統領を務めていたリンドン・ベインズ・ジョンソンの物語。ケネディ暗殺後にすぐに大統領に就き、苦悩を抱えながらも民主党内の意見調整に奔走する様子が描かれている。おじさんたちの密談のようなシーンが多いので、画に華がないのが残念である。

映画「LBJ ケネディの意思を継いだ男」の公式サイト
http://lbj-movie.jp/

この映画の正しい見方は、映画では描かれていないアメリカ史を俯瞰することにあるだろう。

南北戦争当時、共和党は反奴隷制度を掲げていたのに対し、民主党が奴隷制度を支持していた。この事実は、現在の両党の姿と大きく乖離している。北軍が勝利し奴隷制度は崩壊したものの、人種差別は実質的に存在し、またさらにエスカレートするような動きもあった。このあたりはKKKと関連した映画「國民の創生」「ブラッククランズマン」などが参考になる。




北部出身のケネディが掲げた公民権法案に対して、南部の保守派白人層を支持基盤に持つジョンソンは中道右派的なポジションだった。しかし大統領就任後、ケネディの遺志を継承し、公民権法案の成立に尽力する。それはジョンソン大統領の大きな功績と言えるが、同時に南部の白人保守層は共和党支持へと傾いていく。

ジョンソン大統領というと、ベトナム戦争を更なる泥沼に引きずり込んだとして悪評が高いが、この映画は功績の部分についてスポットを当てた映画だ。アメリカ史を学ぶ教材としてお勧めである。

2019年11月25日月曜日

恐怖の地下鉄映画「ある戦慄」

ある戦慄
1967年 アメリカ
監督:ラリー・ピアーズ
主演:トニー・ムサンテ マーティン・シーン


1960年代の深夜のニューヨークの地下鉄が舞台。たまたま乗り合わせた乗客たちの地獄を描く異色の映画。

前半は乗客の背景を丁寧に描写する。3歳くらいの眠りこけた娘を抱えた白人の夫婦はタクシー代をケチって地下鉄に。黒人の夫婦は改札で駅員と一悶着起こして旦那が憤慨。「いつまでも白人のナメられてたまるか!」アル中から立ち直ろうとするオッサン。その男にヒトメボレしたゲイの若い男が後ろからついてこっそり乗車する。年の差カップルは若妻が爺さんを尻に敷いている。子どもに金を無心して断られた老夫婦。「育ててやったのに恩知らずめが!」イチャついているカップル。若くて純情そうな休暇中の軍人2人組。そして座席で眠りこけている酔っ払い。

そこに乗ってくるギャング2人組。吊り革にぶら下がったり暴れまわったりやりたい放題。のみならず、ナイフをちらつかせながら乗客を次々とからかっていく。この2人、地下鉄に乗る前に既に暴力沙汰を起こして通行人から8ドルを奪う。8ドル・・・

「なんだテメエら、もうヤッたのかあ?」
「ニガー、臭うんだよ、ニガーはよお」
「やっぱりこいつオカマ野郎だぜ!」

2人の暴虐を誰も咎めない。次第に乗客たちはお互いのパートナーに不信を抱き、勝手にいがみ合う。それを見てギャングは歓喜する。ドアはギャングの1人がブロックしていて降りたくても降りられない。拷問のサブウェイは深夜のニューヨークの街を突き進む。

最後にようやく軍人の一人がギャングを制圧し、駅で警官を呼ぶ。なだれ込んできた警官は間違って黒人の男を羽交い絞めにする。

解放と同時に、最初から最後まで眠り続けていた酔っ払いが床に転げ落ちて映画は終わる。

地下鉄車両という閉鎖空間に社会の有り様を凝縮し、不条理として描いている「ある戦慄」。観客の心に深く深く爪痕を刻む傑作である。

2019年10月28日月曜日

クリーンな「汚れた英雄」

汚れた英雄
1982年 日本
監督:角川春樹
主演:草刈正雄

北海道テレビ放送「水曜どうでしょう」原付東日本企画で、大泉洋が「『汚れた英雄』かけてみたらカッコよかった」などと叫んでいた、あのバイクレース映画。
riding high riding high you are the lonely rider i know♪

若き日の草刈正雄が主演。官能的ともいえる引き締まった肉体美を存分に堪能できる。草刈正雄の熱狂的マニアの需要は満たすことができるだろう。またレースシーンの迫力は本作の見どころでもある。が、それだけ。

問題は、誰も汚れていないこと。強いて言えば、3人ぐらいの女と関係を持っていることだろうか。主人公はセレブの女にレース資金を出させているジゴロだ。それを「汚れた」と形容するのは無理があろう。むしろ女に金を出させるとは、優れた資金調達力と言える。というかウラヤマシイ。

ライバルチームのメカニックを買収する、レギュレーションを都合よく変えてしまう、美人局を仕掛けるなど、いくらでも陰謀は考えられる。原作にあったかも知れないその「汚れた」部分を割り切ってカットしたのかもしれない。が、全体としては全く中身のない映画に相成った。主人公に絶望も葛藤も成長もない。脇役も魅力がない。ストーリーも凡庸そのもの、いやストーリーが無いに等しい。具のない鍋料理のようだ。

そこかしこにバブルの香りが濃密に残る、いわば高度成長期を代表する歴史資料映画。後世に残すべき意義は大いにある。しかし、うれしーがこの映画を評するなら「止っているようだもの」だろう。

2019年10月20日日曜日

ザ・ロブスターが描くディストピア

ザ・ロブスター
2015年 ギリシャ・フランス・アイルランド・オランダ・イギリス合作
主演:コリン・ファレル
監督:ヨルゴス・ランティモス



禁独身社会VSリア充追放ゲリラの壮絶な争い、というのは煽りすぎか。

パートナーと別れてしまった人は「ねるとん的リゾートホテル」へ。ここで45日以内にパートナーを見つけられないと動物に変えられてしまう。どんな動物になりたいかは申告可能。「狩り」で森に潜む独身者を捕獲すれば1日延長。徹底した思想は人間を生産性で語るどこかの国の政治家に通じるものがある。

主人公の男は奥さんに逃げられてこのホテルに収容される。

「私はロブスターになりたい」

海底で100年以上ひっそりと生きられるというのが理由。この地味な男を演じるのは、ゴールデングローブ賞受賞のコリン・ファレル。下っ腹の膨らんだ姿は堪らなく物悲しい。

このホテルは、いわば「性的全体主義ホテル」。異性への興味を維持するためのあるレギュレーション(破るとんでもない罰が!)。独り身の悲劇を叩き込まれる寸劇。この狂気じみた描写が、間の悪いコントのように延々と続く。不吉なヴァイオリンの調べが笑いたい衝動を打ち消す。

「こんな世界はいやだ!」

逃げ出してみると、森に潜んでいるゲリラに迎えられる。独り者でも気兼ねなく過ごせるはずが、皮肉なことに主人公の男はここである女性と仲良くなってしまう。恐ろしい制裁が彼らを待ち受けていた・・・




大きな軸としてイデオロギーの違い、あるいは異端の排除というのがこの映画で描かれている。が、そんな堅苦しいものではなく、これはコメディだろう。しかし笑えない!でも純愛についても考えてしまう。そんな倒錯した時間を過ごしたい方にこそお勧めしたい。

2019年9月28日土曜日

日本のいちばん長い日

この夏観た映画で印象的なものを紹介。


1945年8月15日は終戦の日。日本が連合国に敗れた日であると同時に戦後社会の出発点でもある。しかし、日本の敗戦が濃厚になった1945年当時、8月15日の玉音放送に至るまでに、日本の中枢部で何が起きていたのかを知る人は意外と少ないと思われる。

「日本の一番長い日(1967年・東宝)」という映画では、旧日本陸軍将校によるクーデター未遂事件(宮城事件)が描かれている。

1945年当初の時点で敗戦は目に見えていた。それでも日本政府はポツダム宣言を黙殺し、そうこうしている間に原爆で広島と長崎が壊滅。もういよいよ、遅きに失したのだけれど、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない。そんな状況でも、戦争継続・一億総玉砕を主張する一派が存在した。その一人が、黒沢年男が演じる畑中少佐という男。彼らが何をしようとしたのか?

この映画のテーマは「眼圧」ではないだろうか。「目力(めぢから)」と書くとニュアンスが違うので、眼圧。最狂の眼圧で迫ってくる畑中少佐に注目!クーデターの首謀者だ。

現代に生きる我々が「狂気だ」と言って止まっていては何も進歩はないだろう。当時の陸軍内には畑中少佐のような思想を持った軍人が多数いたと聞く。そういう狂気がなぜ生まれてしまったのか?先の見えない現代に生きる我々が、いったん立ち戻るべき原点がこの映画に描かれている。

「日本の一番長い日」は2015年にリメイクされた。違いを比べてみるのも一興。

2019年9月26日木曜日

「ボラット」が日本に上陸する日

思想家・内田樹氏が、昨今メディアにあふれるの嫌韓言説に対してブログで語ったものを引用。

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彼らが「嫌韓」という看板を借りて口にしているのは、先ほど言った通り、「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」である。ふつうなら「非常識」で「下劣」で「見苦しい」とされるふるまいが、どうも今の言論環境では政府からもメディアからも司法からも公認されているらしい。だったら、この機会に自分にもそれを許してみよう。「処罰されない」なら・・・と期待して、精一杯下品で攻撃的になってみせたのである。だから、「処罰」がちらついた瞬間に、蜘蛛の子を散らすように消えたのは怪しむに足りない。「処罰されないなら公言してみたいが、処罰されるくらいなら言わないで我慢する」ということである。そうした方がいいと思う。
 
 だが、彼らが忘れていることがある。それは、人間の本性は「処罰されない」ことが保証されている環境でどうふるまうかによって可視化されるということである。
「今ここでは何をしても誰にも咎められることがない」とわかった時に、人がどれほど利己的になるか、どれほど残酷になれるか、どれほど卑劣になれるか、私は経験的に知っている。そして、そういう局面でどうふるまったかを私は忘れない。それがその人間の「正味」の人間性だと思うからである。

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全文は以下のリンクで
http://blog.tatsuru.com/2019/09/05_1411.html


これを読んで、映画「ボラット」を思い出した。


イギリス人コメディアンのサッシャ・バロン・コーエンが、カザフスタン国営テレビのレポーター「ボラット」に扮し、アメリカを取材するというコメディ映画である。

表向きは文化の違いを体験し、それをカザフスタンに伝えるという名目だ。しかし取材を受けたアメリカ人たちは、「どうせカザフスタンで放送されるテレビなんか誰も観ないだろう」という心理的解放から、トンデモナイ本音を開陳する。


ボラット「ユダヤ人を撃つ銃はアリマスカ?」
ガンショップ店員「この45口径かセミオートマがいいんじゃないかな」

ボラット「ワタシの国ではホモは死刑です」
カウボーイ協会会長「アメリカもそうありたいね」

ボラット「アメリカに奴隷はイマスカ?」
学生「奴隷がいたらこの国はもっと良くなるよ」



ボラットの真の目的は、あらゆる差別意識を炙り出すこと。そしてそれを笑い飛ばすこと。下ネタも満載、恐ろしく下品で、笑えて、背筋が寒くなるのがこの「ボラット」だ。

ボラットことサッシャ・バロン・コーエンは、ケンブリッジ大卒のインテリ。しかも敬虔なユダヤ教徒でありながら、バカのふりをしてユダヤ人に対して差別的な発言を繰り替す。実に悪質かつ巧妙なトリックの前に、人間の本性を引きずり出されてしまうのだ。


内田氏の指摘は、ボラットが見事に実証していたと言えるだろう。

日本にボラットが上陸したら、誰がどんな本音をさらけ出すだろうか?


なお、「ボラット」の続編ともいえる「ブルーノ」も、輪をかけて下品でバカバカしい。どちらもマジメな方は絶対に観ないことをお勧めする。








2019年7月6日土曜日

華氏451は何の温度?

「明日の最高気温は60度です。」

アメリカの天気予報にびっくりした方も多いだろう。現地で長く暮らしている方は慣れているけれど、日本とは温度の単位が違うのに私も戸惑った経験がある。アメリカでは「華氏」が採用されているのだ。

摂氏(Celsius)0℃=華氏(Fahrenheit)32F ←Fの左肩に小さな○がつく

華氏451Fは、紙が自然発火する温度。ちなみに摂氏では233℃くらいである。


レイ・ブラッドベリ原作の「華氏451」は、本の持つことや読書が禁じられた世界、すなわち全体主義国家を描いている。「華氏451」は1966年に映画化されている。

主人公は消防士のモンターグという男。消防は市民からの密告により出動、本を所持している者の家に押し入り、本を見つけだし、火炎放射器で焼却する。消防士が火をつけて回るという極めて倒錯した世界である。

モンターグは、当初は体制側の人間の典型として描かれており、特に何の感情もなく仕事をこなしていく。中堅どころの消防士として活躍し、そろそろ昇進かという話も出てくる。しかしある日、些細なきっかけで読書に興味を持ってしまう。

この映画の映像的特徴として、全体主義国家らしい平板さ、あるいは多様性の欠如というものが見て取れる。舞台は英語圏の国のある街のようだが、国や地域を特定できるもの、文化的な特徴と言えるものはほとんど描かれていない。登場人物の服も家も街並みも、(カラー作品だけど)全て色を失っている。おまけに消防士の制服や消防車、消防署の建物までもがダサい。雰囲気としてはサンダーバードを想起させる。

エンディングでは全体主義国家へのアンチテーゼも描いている。

この物語は、「あり得る並行世界」として受け止める知性を観客に要求している。とりわけ、現代の日本に生きる私たちは、これをただの架空の世界のお話に帰結させるわけにいかない事態が進行していることを忘れてはいけない。


2019年6月23日日曜日

ボーダーレス~僕の船の国境線~ その2

この廃船で起こる出来事は人と人の物語でもあり、同時に国と国、すなわち外交関係であることも容易に思い当るであろう。中東問題である。

廃船内で暮らす少年のもとに、ある日闖入者が現れる。廃船内で言葉が通じない者同士で警戒し、テリトリーを主張する。だがある問題を巡って2人は協力してこれを乗り越え、友好的な外交関係が芽生える。つまり、映画の登場人物はそれぞれがある国を象徴しているのだ。少年たちは、言語が通じない状況でなんとか意思疎通を図り、主張し、あるいは譲歩し、廃船内での平穏な営みを模索する。

そんな模索を危機にさらす存在が、第4の登場人物・米兵だ。この男の存在が、中東地域の紛争を見事に象徴しているように思える。

石油利権や宗教の聖地を巡って争いが絶えないこの地域。中東諸国のお互いの外交努力を無力化する諸外国の介入は、枚挙にいとまがない。中東の歴史は外圧と破壊の歴史といってもいいだろう。

人物を国家として考えてみると、米兵は当然アメリカであり、その他の3人が中東諸国と言えるだろう。とすると米兵の登場は中東への介入である。中東地域に不安材料をもたらす存在である。だがここでは米兵も実は戦争の被害者であるという描かれ方をしている。つまり、加害者と被害者という単純な構図に帰結させていないのだ。国家としての振る舞いや戦争の結果に係わらず、多くの兵士は悩み、傷つき、苦しんでいることを忘れてはならない。

そしてこの米兵がまた意外や意外、この廃船内の和平に大いに貢献することになる!現実世界では残念ながら起こりそうにないのが皮肉ではあるけれど。

この和平も長続きしない。ラストシーン。ここでは監督の悲痛というか嗚咽を感じざるを得ない。俺たちは、こうやっていつも蹂躙されてきたんだ。これまでずっと・・・また一人ぼっちに戻ってしまった少年の虚ろな眼差しが雄弁に物語るのだ。

出来すぎたサブタイトル、と前回書いた。私はこの物語で描かれているものについて、観客に考えてほしいと思う。サブタイトルの効果もあって、これは外交と紛争の歴史についての話だと容易に推察できる。しかしこれは観客自身が、この物語に伏流するメッセージを考える機会を奪ってしまった形になる。それだけが残念ではあるが、それでもこの物語は私たちの心の奥底に静かに存在し続けるだろう。

2019年6月21日金曜日

ボーダーレス~僕の船の国境線~ その1

ボーダーレス~僕の船の国境線~

2014年のイランの映画。ある国境沿いの川に浮かぶ廃船。その中で暮らす少年は、捕った魚や貝のアクセサリーを露店に売りに行ったりして生計を立てている。廃船から見上げる小高い丘の上に、鉄条網と監視塔が見える。そのあたりを兵士らしき人影がウロウロしている。時折銃声が響く。兵士に発見されないように、少年は身を隠しながら生活している。たくましくも寂しく、そしてリスクと隣り合わせの暮らしだ。

この映画の特筆すべき点は、構成が極めてシンプルなこと。主要登場人物は4人。たった4人。そのうち(おそらく)中東の言語を話すのが先の少年を含めて2人。といっても別の言語なので通じない。もう1人は英語を話し、もう1人は言語を話すことさえない。つまり、この4人はお互いに言語によって意思疎通を図ることができない。

演出も奇をてらったものは何もない。BGMも極端に少ない。画角は全編を通して引きの画を巧みに織り交ぜ、飽きのこない映像に仕上げている。極めてシンプルな構成ながら、深遠かつ普遍的なテーマを見事に描き切っている。

サブタイトルも非常によくできている。国境が舞台なのでこのサブタイトルは当然なのだが、「船の国境線」とするところが秀逸である。船の国境線とは何ぞやと観客に思わせるこのセンテンス。だがこれは出来すぎたサブタイトル、というのが妥当だろう。

この船の中で何が起こるのか?この4人はうまくやっていくことができるのか?4人の存在は何を意味するのか?ネタバレ編と出来すぎたサブタイトルの理由は次回で。

2019年3月23日土曜日

「千と千尋の神隠し」に隠されたメッセージ




映画「千と千尋の神隠し」について、映画評論家の町山智宏氏の解説を拝聴した。

「千と千尋の神隠し」を初めて観たのはいつだったのか、とんと思い出せない。中島みゆきの「銀の竜の背に乗って~」のようなシーンが印象にあるが、内容はほぼ覚えていない。町山氏の解説の後、今回改めて観てようやく記憶が戻った次第。それくらい宮崎アニメは私には難解である。内容を覚えていない、だけど間違いなく観たことはある。そんな作品がいくつもある。

メッセージが難解なのは、宮崎駿氏も承知の上らしい。どうせ大多数の客には理解できないだろうと、何かのインタビューで語っていたとのこと。町山氏は、その難解なアニメが大ヒットとなり多くの客が本当のテーマを理解できないままこの作品を鑑賞したことを嘆いていた。私もわからなかったその一人である。面目のないことである。

さてこの内容とテーマであるが、宮崎駿氏は性風俗であると述べているそうだ(と町山氏は語っていた)。

多分に衝撃的で意味深い。しかし言われてみれば、油屋の外観は売春宿そのものであり、内部は個室浴場となっている。この点は町山氏が時代考証を交えて詳しく解説しているので省略するが、そこで行われている行為もまた性風俗に酷似している。千は性行為をしているわけではないようだが、あの手の店では最初から客の接待をすることはなく、下働きから始めるのが普通だと町山氏は解説している。いや「抜いてあげる」シーンは性的サービスであるとも言える。そう考えると町山氏の考察にも疑問符が付くところではあるが、そこは本論の本筋から外れるので次に進む。

また湯婆婆の姿も、19世紀に存在した欧米の売春宿のマダムそのものとのこと。それを知っている欧米の方のほうがピンとくるらしい。千尋が千に、ニギハヤミコハクヌシ(どなたか漢字を知っている方は教えてください)はハクにと、源氏名が与えられているのも示唆的である。なんということだろう

つまりこの物語は、何らかの事情(この場合は親の危機管理能力の欠如?)によって風俗産業で働かざるを得なかった女の子が、働き、礼儀を身につけ、そして風俗産業から抜け出す物語なのだ。そう考えると、他の描写もそれを裏付けるアイコンとして映る。例えば一瞬だけ登場するイモリの黒焼き。これは媚薬である。また千尋が渡る川は、赤線であると推測できる。歴史的経緯を熟知している宮崎駿氏がこれらを意図して登場させたというのは穿ちすぎだろうか?

この作品の中では、名前も重要な意味を持つ。
カオナシは「嫌な客=我儘放題のモンスタークレーマー」のような存在として描かれている。
金をばら撒き、暴虐の限りをつくし、そして千を買おうとする。しかし千は欲に塗れておらず、顔無しの企図は成らず、千はカオナシに飲み込まれた従業員を救助する。その後千はハクを助けるため、カオナシと共に銭婆を訪ねる。カオナシは匿名の空間=油屋の中で自分と同じ価値観を持つ者に対しては粗暴に振る舞うが、そうでない場合=油屋の外では実に従順である。現代のネット空間を象徴するようなシーンではないか。匿名の蓑に隠れ、他人を誹謗中傷し、呪詛の言葉を投げる輩を象徴するようだ。カオナシは巨大掲示板などでよく見る「名無しの**さん」とも言えるだろう。

思想家の内田樹氏は、匿名での発言について「自分が何者でなくても良いことを認めている」ようなものだと語っていた。そしてその種の呪詛は発信した者自身を侵食する作用をもたらすという。正確な表現は思い出せないが、大筋でそんな意味だったと記憶している。匿名空間から抜け出すこともまた大きなテーマなのだ。千やハクは油屋での労働に励んだ末に風俗から足を洗い、銭婆から手伝いを頼まれたカオナシは、銭婆のもとに身を寄せる。現実の世界で、他者から必要とされることで居場所が出現する。裏を返せば、現代における匿名空間の膨張=世界の人間空間の縮減という構図が見えてくる。

町山氏はカオナシについて「引きこもり」と評しているが、カオナシにとって油屋は風俗ではなく匿名空間であると考えたほうがよさそうだ。

この映画の公開は2001年。宮崎氏が当時、ネットでの言論と匿名性について意識していたのかは不明だ。しかし匿名という立場に身を置くことの影響を色濃く反映させようとしたことは間違いないだろう。また匿名性についての視点は、内田氏の論考を参考にさせていただいた。的を射ているかどうかは不明。勝手な解釈ではあるが、蒟蒻問答だと考えればそれはそれで学ぶところが大きいというものだろう。手前味噌ではあるが。



2018年9月28日金曜日

ウナギの家系図ができる日


今村昌平監督の映画「うなぎ」は、心に沁みる名作である。

主人公はとある事情で服役後、仮出所中の男。ある町で
理髪店を営んでいるが、そこに謎の多い女が転がり込んで
くる。そしてまた男の過去を知る人物が現れて騒動に・・・
というもの。

シリアスな設定ながらユーモアも随所にちりばめられた
人間ドラマに、主人公が飼うウナギがオーバーラップする。

物語の終盤、飼っているウナギに主人公の男が語りかける
言葉は、ストーリーと現実のウナギの生態を見事に
描写している。

「俺もようやく、お前と同じになった。どこの誰だか
分らん男の子どもを育てるんだ。お前の母親も赤道の
海で卵を産んで、そこへ雄の精子がばらまかれ、妊娠した。
どの雄の子か分らない。分らないが、立派なウナギだ。
もの凄い犠牲を出しながら、日本の川に連れ返れ。」


とはいうものの、現実のウナギはこのまま「どこの誰だか
分からん」子どもを育てるに任せて良いのかと言う、
のっぴきならない事態になっているようだ。



2018年は年初からウナギの不漁のニュースが報じられた。
例えばこちら

記事によれば、なんとシラスウナギ(ウナギの稚魚)の
漁獲高が前期の1%程度だということだ。1%減ではない。
99%減、ほぼゼロだ。

尤も、うなぎの不漁はつい最近の話ではない。

ナショナルジオグラフィックの記事によれば、1970年
頃まで3000トンほどあった親ウナギの年間漁獲高は、
2010年には200トン程度まで減少している。
シラスウナギの漁獲高も似たような推移だ。


不漁の原因は乱獲・(気候変動に伴う)環境破壊など
様々な説がある。その中でも乱獲は、ウナギが安く気軽に
味わえるようになったことと深く関係していると
言われている。


将棋の藤井猛九段によると、最近はファミレスでも
ウナギが食べられるそうだ。

「こっちは鰻しか出さない鰻屋だからね。ファミレスの
鰻に負けるわけにはいかない。」

藤井九段は四間飛車(藤井システム)という戦法の
スペシャリストで、この戦法では負けるわけにいかないと
いう自負を、鰻屋に例えたのがこの名言である。

*ここだけ「鰻」を使っているのは藤井九段に敬意を
こめて、です。分からない方はお気になさらぬよう。



将棋ではなく、ウナギの話に戻す。

一昔前は、といっても正確な統計はこの際無視するが、
ウナギは専門店で食べるものだった。ところが、である。
最近はコンビニやスーパーで安価でウナギが販売される
ようになった。ファストフード店でも気軽に食べられる
ようになっている。藤井九段の名言の如くファミレスの
メニューに載っていても不思議は無い。

つまり、不漁に伴なってウナギ全体の消費量は減少して
いるものの、低価格化によってウナギは一般化
(コモディティ化?)したと言える。今やウナギは
専門店での消費のほうが少なくなったそうだ。

土用の丑が近づけば、スーパーには巨大なウナギコーナーが
出現する。コンビニにはウナギ弁当が並ぶ。そんな光景は
今や初夏の風物詩なのだ。



そんな中で年頭のシラスウナギ不漁のニュースである。

ああ、いよいよXデー(X年?)がきた。

今年の夏は日本からウナギが消えるのか。


正確に言えば、私はこの時点(2018年の年頭)では、
スーパーやコンビニやファミレスからウナギが消えると
思っていた。専門店では若干の、あるいは大幅な価格
上昇を伴いながら、ウナギが提供されるだろうと勝手に
予測していた。コモディティ品から以前のような
高級品への回帰。それも致し方ない、と。


初夏になってみると、近所のスーパーには例年通り
「ウナギ予約受付中!」との大きなPOPが掲示さた。
蒲焼も陳列ケースに普通に並んだ。価格が特段に
高騰したようには見えなかった。

私は深く溜息をついた。ウナギ業界は粘膜のように
ぬるぬるとして捉えどころの無い闇で覆われている
気がした。


ところで前掲の記事について、水産庁のデータを調べて
みたところ、興味深い数字が炙りだされた。

平成30年1月の前掲の記事によると、同時期までの
シラスウナギの漁獲量が前年比1%程度となっている。

前年比ということは前年のデータも調べる必要があるので、
そちらも調べてみたところ、以下の数字だった。
ソースはこちらこちら


平成29年漁期12月まで 計5.9トン
平成30年漁期12月まで 計0.2トン   *前年比約3.4%


新聞記事の1%という数字ではないものの、前年比3.4%は
極めて少ない数字であるといっていいだろう。差異の
原因は不明だが、この記事を執筆した記者が確認した
時点での数字と月ごとの数字が若干ずれているのは
特段に不自然ではない。

いずれにしても12月までの数字は前年比大幅減である。
これは、昨年は12月までに少し獲れたが今年は12月までに
ほとんど獲れていなかった、ということだろう。
本格的に漁獲が計上される時期が今年は少しずれたのだ。


次に年間漁獲高である。

平成29年漁期 計19.6トン
平成30年漁期 計14.2トン  *前年比約72%

平成30年漁期のデータは7月までのデータである。
平成30年漁期は10月までなので、従って14.2トンはまだ
暫定値だ。しかし、シラスウナギはどうやら6月以降は
ほとんど獲れないようなので、ほぼ確定値と見做す
ことができる。


改めて前掲の記事の見出しを確認してみる。

「うなぎ稚魚 空前の不漁 鹿児島は前期の1% 
宮崎も2%」


マスコミの見出しは時に不思議と危機を増幅するようだ。
1次データを当たってみることの重要性を痛感した。



私は前年比72%という数字に安堵しているわけではない。
危機感の度合いが多少は緩和されたにすぎない。
長期的なデータ見れば、ウナギの未来が必ずしも安泰では
無いことは論を俟たない。


ヨーロッパウナギは2007年にワシントン条約の付属書に
掲載され、2009年から取り引きに規制がかかっている。
二ホンウナギを含む他のウナギも同様に規制される可能性
は高いだろう。

そんな状況にありながら、ウナギをめぐるわが国での
規制・トレーサビリティは形骸化しているといってよい。
前掲のナショナルジオグラフィックの記事を含め、少し
検索しただけでも以下のような問題点があることがわかる。


●乱獲・密漁
●産地偽装 
●池入れ量上限設定の意味
●小売店での廃棄


ウナギにかかわるものは、私のような一般消費者も含め、
長年にわたって問題を先送りしてきたことを認識する
べきだろう。

・消費者のニーズに応えて
・安く、便利に
・ウナギを提供する/食べたい

このような市場原理に従うだけではウナギは滅ぶ。
のみならずウナギの食文化も。そのツケは間違いなく次の
世代が払わされる。


今はまだファミレスでもウナギが食べられるかもしれない。
だが私は早急にウナギのトレーサビリティの厳格化を
図るべきだと考える。間違いなくコストに跳ね返るだろう。
コンビニやファミレスからは姿を消すかもしれない。


だが「この誰だか分らん男の子どもを」輸入した業者も
不明なまま流通させている現状では立ち行かない。
家系図を作るとなると完全養殖が実現できなければ不可能
だが、それでもせめてトレーサビリティの厳格化を図る
べきだ。間違いなくコストに跳ね返る。コンビニや
ファミレスからは姿を消すかもしれない。


無策の末に自然回復するか、絶滅か。

はたまた厳格な規制対象にするか。



厳格な規制対象になれば、現在のウナギ流通過程における
事業者は死活問題だろう。だから現在のウナギ事業者は
誰も諸手を挙げて規制を歓迎しない。


誰が腹を切るのか。いやウナギは地域によっては背を
開くのか。


いずれにしても、ウナギの未来はヌルヌルとして見通しは
明るくなさそうだ。



「ファミレスの鰻に負けるわけにはいかない。」
「藤井先生、今はもうファミレスでは鰻は食べられ
ませんよ。」
「えっ、そうなの・・・?古い人間なんで、すみません。」


そんな時代が来るかもしれない。





2018年6月13日水曜日

おだやかな革命の辺縁 その2


前回の続き。

映画「おだやかな革命」では、様々な地域での取り組みが
紹介されている。

やや意地の悪い表現をすれば、美しい物語ばかりだ。


だが、私はこういう地域の取り組みを根底から覆すような
要素を懸念する。

先人たちが積み上げてきた社会システムを毀損するもの。
それは内外から、緩急を問わずに降り積もってくる。

大体は多分に政治的な要素や世界の動きが絡む。
だからそういうことに対しての社会の反応は鈍い


美しい物語に浸っている間は心地よい。

だが社会システムを毀損するものに注意を払い、
検証し、取り除いていく試みは、恐ろしく地味で
膨大な労力を必要とする。

そういった作業の専門性と必要性が、日本では
どういうわけか理解されていないように感じる。
私たちの権利を損なうものへの危機感が恐ろしく
希薄ではないだろうか。

地域での試みを守る役割。
いってみれば灯台守のようなポジション。

嵐の予兆を感じ取り、海域の安全に留意し、遭難者を
救助し、あるいは敵艦隊の襲来をいち早く伝える。



美しい物語を紡ぐ努力は大事だが、灯台守に最大限の
敬意を払い、協力を惜しまないこともまた地域を
つくることの一環ではないだろうか。