2019年3月23日土曜日

「千と千尋の神隠し」に隠されたメッセージ




映画「千と千尋の神隠し」について、映画評論家の町山智宏氏の解説を拝聴した。

「千と千尋の神隠し」を初めて観たのはいつだったのか、とんと思い出せない。中島みゆきの「銀の竜の背に乗って~」のようなシーンが印象にあるが、内容はほぼ覚えていない。町山氏の解説の後、今回改めて観てようやく記憶が戻った次第。それくらい宮崎アニメは私には難解である。内容を覚えていない、だけど間違いなく観たことはある。そんな作品がいくつもある。

メッセージが難解なのは、宮崎駿氏も承知の上らしい。どうせ大多数の客には理解できないだろうと、何かのインタビューで語っていたとのこと。町山氏は、その難解なアニメが大ヒットとなり多くの客が本当のテーマを理解できないままこの作品を鑑賞したことを嘆いていた。私もわからなかったその一人である。面目のないことである。

さてこの内容とテーマであるが、宮崎駿氏は性風俗であると述べているそうだ(と町山氏は語っていた)。

多分に衝撃的で意味深い。しかし言われてみれば、油屋の外観は売春宿そのものであり、内部は個室浴場となっている。この点は町山氏が時代考証を交えて詳しく解説しているので省略するが、そこで行われている行為もまた性風俗に酷似している。千は性行為をしているわけではないようだが、あの手の店では最初から客の接待をすることはなく、下働きから始めるのが普通だと町山氏は解説している。いや「抜いてあげる」シーンは性的サービスであるとも言える。そう考えると町山氏の考察にも疑問符が付くところではあるが、そこは本論の本筋から外れるので次に進む。

また湯婆婆の姿も、19世紀に存在した欧米の売春宿のマダムそのものとのこと。それを知っている欧米の方のほうがピンとくるらしい。千尋が千に、ニギハヤミコハクヌシ(どなたか漢字を知っている方は教えてください)はハクにと、源氏名が与えられているのも示唆的である。なんということだろう

つまりこの物語は、何らかの事情(この場合は親の危機管理能力の欠如?)によって風俗産業で働かざるを得なかった女の子が、働き、礼儀を身につけ、そして風俗産業から抜け出す物語なのだ。そう考えると、他の描写もそれを裏付けるアイコンとして映る。例えば一瞬だけ登場するイモリの黒焼き。これは媚薬である。また千尋が渡る川は、赤線であると推測できる。歴史的経緯を熟知している宮崎駿氏がこれらを意図して登場させたというのは穿ちすぎだろうか?

この作品の中では、名前も重要な意味を持つ。
カオナシは「嫌な客=我儘放題のモンスタークレーマー」のような存在として描かれている。
金をばら撒き、暴虐の限りをつくし、そして千を買おうとする。しかし千は欲に塗れておらず、顔無しの企図は成らず、千はカオナシに飲み込まれた従業員を救助する。その後千はハクを助けるため、カオナシと共に銭婆を訪ねる。カオナシは匿名の空間=油屋の中で自分と同じ価値観を持つ者に対しては粗暴に振る舞うが、そうでない場合=油屋の外では実に従順である。現代のネット空間を象徴するようなシーンではないか。匿名の蓑に隠れ、他人を誹謗中傷し、呪詛の言葉を投げる輩を象徴するようだ。カオナシは巨大掲示板などでよく見る「名無しの**さん」とも言えるだろう。

思想家の内田樹氏は、匿名での発言について「自分が何者でなくても良いことを認めている」ようなものだと語っていた。そしてその種の呪詛は発信した者自身を侵食する作用をもたらすという。正確な表現は思い出せないが、大筋でそんな意味だったと記憶している。匿名空間から抜け出すこともまた大きなテーマなのだ。千やハクは油屋での労働に励んだ末に風俗から足を洗い、銭婆から手伝いを頼まれたカオナシは、銭婆のもとに身を寄せる。現実の世界で、他者から必要とされることで居場所が出現する。裏を返せば、現代における匿名空間の膨張=世界の人間空間の縮減という構図が見えてくる。

町山氏はカオナシについて「引きこもり」と評しているが、カオナシにとって油屋は風俗ではなく匿名空間であると考えたほうがよさそうだ。

この映画の公開は2001年。宮崎氏が当時、ネットでの言論と匿名性について意識していたのかは不明だ。しかし匿名という立場に身を置くことの影響を色濃く反映させようとしたことは間違いないだろう。また匿名性についての視点は、内田氏の論考を参考にさせていただいた。的を射ているかどうかは不明。勝手な解釈ではあるが、蒟蒻問答だと考えればそれはそれで学ぶところが大きいというものだろう。手前味噌ではあるが。



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