2018年5月23日水曜日

日大アメフト選手の記者会見をドライブするもの



日大アメフト部・宮川選手の記者会見は冒頭しか見ていない。見ていられなかった。


BS放送でNFLの中継を見ることが好きだ。特段に応援しているチームがあるわけでもないけど、(細かなルールはさておいて)ルールがある程度分かると楽しめる。反則ギリギリのプレーも見どころである。もちろん反則はよくないが、プロスポーツという興行の場において、選手は人生をかけて観客を楽しませるのだ。ある程度は仕方ないだろう。

NFLのプレーでも、ハードヒットを受けた選手が倒れるシーンは何度も見た。しかし、今回日大アメフト部の宮川選手が犯したような危険なプレーは見たことが無い。いや、危険なプレーというのはあまりに穏当すぎる表現だ。ほとんど暴行と言っていいかもしれない。


今回はこのようなプレーを生んでしまったものについて考えてみる。


事件の経緯を簡単に記しておく。日大アメフト部のDLの宮川選手が、関西学院大学との定期戦において相手QBの選手に危険なタックルを行い負傷させたというもの。このプレーが監督から「相手QBをつぶせ」という指示だったとして、大きな騒動に発展している。


日大アメフト部の内田前監督(既に辞任)は、反則を指示したことはないと主張している。選手の受け止め方と乖離があったということだが、どう贔屓目に見ても乖離といえるようなものではないだろう。映像にも残っているように、最初の反則(同選手は3回目の反則で退場処分)の時点で、首脳陣が彼に注意をしている様子は全く見えない。


端的に言って、日大の責任は計り知れない。そしてそれを認識していない日大は危機的な状況だ。首脳陣の辞任だけでは済まされない。


だが私は日大を叩くためにこの記事を書くのではない。


日本人は「根性」が大好きな国であると思う。スポーツ界においても、私の世代で学校の運動部に所属した経験がある者なら、根性至上主義というべき不思議なイデオロギーに現場が支配されていることを身をもって実感した人も多いだろう。私自身、中学では野球部に所属していた。弱小公立校の野球部だったが、やれ「水を飲むな」だの、「エラーをしたらグランド10周」だの、今思えばどうしようもなく非合理的な習慣がまかり通っていた。すぐ隣で練習をしているサッカー部やテニス部も同様だった。死人が出なかったのは幸運という他はない。教育という場において、生徒をスポーツを通じてどのように育てるかという目的がすっぽりと忘れられて、理不尽なシゴキに耐えることだけが金科玉条という不思議な時代だった。

そういう世代が今は指導者層になっている。スポ根に染まった者が疑問を持たずにそのままスポ根をスポーツの現場に持ち込んでいるのではないかと思う。


思えば、私たちの世代は学校から社会人になるまで、疑問を持つことを奨励されてこなかった。問いに対する答えを導く技術のみを教えられ、問いを立てるということをしてこなかった。部活動の場で言えば、「次の地区大会で勝ち抜くために何が必要か?」「盗塁を仕掛けるために有効なリードの取り方は?」など、練習方法について論理的な話を私は部活動の場でした記憶が無い。そういう世代が社会人になって、会社の方針に疑問を持つことが出来るだろうか。考える社員を養成することが出来るだろうか。いや考える社員の必要性を感じる上層部がいるのだろうか。もう少し広い実生活の場において、地域社会の問題点に思いをめぐらすことが出来るだろうか。


話を元に戻す。今回の宮川選手の会見を見て、私はとてもうんざりしている。「ああ、またか。」と。

スポーツ界において、これまでにも様々なパワハラ・セクハラ・暴行事件・八百長疑惑が取り沙汰されてきた。その度に多くの人が叩かれ、謝罪会見を開き、カメラの放列とフラッシュの嵐の前に身を曝した。そしてまた繰り返される。

このような謝罪会見は、いったい誰に向けて行われているのだろうか。


今回の事件においては、宮川選手のプレーそのものは非難されて当然だが、彼は自身の見解を勇気を持って示した。そこまではいい。だがその手段として、なぜ記者クラブで多くの報道陣を前で記者会見を開かねばならなかったのだろうか。

負傷した関学選手への謝罪なら誠意を持って直接謝罪すれば済む話だ。また自身のチームの首脳陣や大学側に意見を伝えたいのであれば、それもまた大学側との場を持てばよい。大学側が拒否したのかもしれないが、それでも見解を伝える手段は他にもあるだろう。記者会見を開く必然性は無いように見える。

なぜこんなに謝罪会見(今回は謝罪もあるが見解を示した場だったように思う)が開かれるのだろうか。


私たちはもう少し問題の本質を追求するしつこさを備えておくべきだろう。いくら記者会見が開かれても、それは問題解決に貢献しないものならば何もならない。今回の一連の経緯は、日大側をリンチ的に悪者に仕立て上げるパフォーマンスに映る。


誰がこのパフォーマンスをドライブしているのか。


念のためだが、私は日大を擁護するつもりは無い。責任は極めて重い。これだけは明言しておく。

しかし今回も含めて、私がこの種の記者会見に納得がいかないのは、記者会見が問題解決に資するかどうかという問いを誰も立てないことである。


今後は内田前監督に謝罪会見を求める声が大きくなるかもしれない。そして野次馬私刑魔女狩り裁判ショーが繰り返される。もっとありていに言えば、テレビの前の視聴者が好む格好の素材をマスコミは求める。今回の宮川選手の会見では、冒頭に同席した弁護士が宮川選手をアップで撮影することを自粛するよう求めたのに対し、それを無視したテレビ局がいくつかあったという。なるほど、宮川選手の神妙な表情は視聴者の感情を揺さぶり、視聴率につながる格好な素材だったかもしれない。だが彼の今後の人生を考えれば、アップで映す必要がどこにあっただろうか。

ストーリーありきでコトが進められているように思えてならない。このストーリーをドライブするものについて、私たちは思いをめぐらせるべきである。


改めて書いておく。私は日大側には弁解の余地は無いと思う。選手との見解の相違という言い訳は指導者としては致命的だろう。謝罪や辞任・上層部の交代は必要かもしれない。

しかし、それは問題の表層的な部分でしかない。ハナっから「謝罪しろ!辞任しろ!」という声は、根本的な病巣にどれほど迫ることが出来るのだろうか、大いに疑問だ。


関学大の鳥内監督の言葉はとても貴重だ。

「この事案は、アメリカンフットボールあるいはスポーツの範疇を超えているものだと改めて感じた。」

被害者である立場から、問題を矮小化することなく解決に向けた俯瞰的な視点が示されたことにこそ、私は希望を見出したい。