2018年3月18日日曜日

「ミエルカ」だけでは見えないもの





あいちコミュニティ財団(以下、同財団)の事件が表面化してから3ヶ月が経過しようとしている。この地域の中間支援組織として大きな影響力を持つ組織が起こした事件だけに、その衝撃も大きかった。昨年末に新聞で報道されて以来、この地域の非営利セクターで活躍する多くの先輩方がこの事件についてコメントしていたことがそれを物語っている。


事件の概要だけ簡単に触れておく。同財団は36協定を締結しないまま職員に時間外労働を行わせ、残業代も支払っていなかったとして労働基準監督署から是正勧告を受けた。退職した職員2人から未払いの残業代支払いの請求があり、また前代表からパワハラを受けていたと申告したとのこと。


前代表は引責辞任、理事の多くも入れ替わった。2018年2月2日に各ステークホルダーへの新体制発足説明会が開催されたとのこと。2018年3月6日にはその説明会についての報告がHPにアップされた。

http://aichi-community.jp/news/25102


なんというか、私は、(経緯も含めて)この報告を見て、無力感とも失望ともいえない気持ちに襲われた。なぜこの事件が起こったのか、根本的な部分への考察が何もなかったからだ。


「理事会や評議委員会が機能していなかったからだろう?」
「労務に関する知識とマネジメント不足以外に何がある?」


もっともである。

だが私はそれで今後の同財団の見通しが明るくなるとは思えない。同財団が2018年1月10日の理事会にて決定した新執行体制が、問題の解決と再発防止に機能する保証はどこにもない。


誤解を避けるためにあえて明記しておくが、私は新体制を担う方々に異論があるわけではない。プロフィールを拝読する限り、私のようなものが及ぶべくもない活躍をされている方ばかりである。しかし、それが労務問題に対応できる能力と言えるかどうかが分からないのだ。


非営利セクターにおける労務問題は今に始まったことではない。名古屋においても、指定管理者として事業を運営していたある組織がとんでもない問題を引き起こしたという事例もある。また大きく報道はされていないが、いつ表面化してもおかしくないような運営をしている団体もあると聞いている。まあただの噂といえばそれまでかもしれないが。


いずれにしても労務問題はどの組織にだって起こりうると認識するべきだろう。

では、なぜこれまでの理事や評議委員はこの問題発生を予知・防止できず、新体制を担う方々なら大丈夫なのか。その検証がない中では、「祈るしかない」という他にない。ご活躍されている方々なら、きっと大丈夫でしょう、と。



さて、ここからようやく本題。


「ミエルカ」とは、同財団HPにて以下のような説明がある。

「事業指定プログラム「ミエルカ」とは、あいちコミュニティ財団と参加する市民公益活動団体(NPO)が一緒になって寄付を集める“志金”調達サポートプログラムです。「地域で今、何が起きているか?」「課題は何か?」を広く訴え、その解決策(=参加NPOが行う取り組み)への寄付金を当財団経由で集め、集めた寄付金から運営費を除いた額を助成金として交付します。」

http://aichi-community.jp/mieruka_program


「ミエルカ」というこのキャッチは、「見える化(現状では見えていない問題点を見えるようにすること)」という元来は製造業の工場で使われていた言葉をアレンジしたものらしい。日本語の特性として、このように表記されるとどう読んでいいのか戸惑う。「みえるか」「みえるちから」「みえるりょく」という3つの読み方が出来てしまう。上記のアドレスからすると「みえるか」と読むのが正解のようだ。


同財団については、このミエルカ以外にも多くのプログラムを実施していたが、私はこのミエルカが象徴的な響きを持っているように感じたので、当稿ではこの視点から同財団について考察してみる。*会計の問題には触れませんので、そのことについて期待された方は以下は読まないで結構です。



唐突な問いだが、見える化はそんなに大事なのだろうか?


「何を言っているんだ、今更」
「中身の分からない活動を誰が応援するんだ?」

ごもっとも、返す言葉もありません。


世の中にはこんな社会問題があって、私たちはこんな手段で解決を目指します。事業計画はこちらです。ヒトモノカネはこれくらい必要です。この事業によってこんな効果が期待できます。そうやって助成金を獲得し、委託事業を受託する。あるいは支援者から資金(同財団風に言うと志金)をいただく。そのプロセスについては特段の異論があるわけではない。ただ、同財団の活動を外野から見る限り、それしかないのだ。「ミエルカ」以外のプログラムも基本的に同じ主旨で構成されていると判断していいだろう。


それしかない。これは実はとても心許ない事態である。


私は現場の活動や支援を求めるプロセスの明確化が不要だと主張するつもりはない。それはそれで必要だと考えている。ただ、他にもっと懐の広いビジョンが必要なのではないかと言いたいのだ。


「成果志向」という言葉について考えてみる。この言葉は、非営利活動のみならずあらゆるセクターの組織で使われるようになった。明確な定義についてはここでは触れない(というか明確な定義が存在していないようにも感じる)。つまるところ「最小のリソースで、最大の成果を出す」ということであろう。それらは多くの場合、数値で定義することが推奨されている。


確かに、活動のプロセスや社会に与えた影響を見えやすくすることは必要である。支援も得られやすいだろう。


明確に見える成果とは農業で言えば収穫ではないだろうか。収穫を得るためには、土づくりに始まって、種を播き、苗を育て、施肥に水遣り除草接木防虫防霜などの種々の大変な作業の結果ようやく得られるのが収穫である。


社会問題の解決において、目に見える収穫が数値で測ることの出来るものならば、目に見えない、農業で言うところの収穫に至るまでの種々の作業は何だろうか。


私は「意識の変化」であると考えている。


どんな方法で人の意識を変化させられるだろうか。どうやって計測すればよいだろうか。


とんと見当がつかない。というより、簡単に表現できるようなものではない。


意識の変化を促すことは、教育に近いと考えられる。試行錯誤しながら、有効な方法を探るしかない。それでも毎回その方法が有効であるとはいえない。またその成果を実感できるかどうかも分からない。これまでの経験知を総動員して最適と思われる教育を実施しても、子どもたち全員が成熟した大人になるとは限らない。逆に何がきっかけか分からないけれど、子どもがその能力を爆発的に開花させ、政府の要職を担うかもしれない。画期的な研究でエネルギー問題を解決させるかもしれない。ヘルベルト・フォン・カラヤンのような世界的な指揮者になるかもしれない。平均的なサラリーマン安部礼司になる可能性が最も大きいだろうけど。成果というものを簡単に期待できないのが、教育の難しさだ。


ソーシャルビジネスにおいて、教育は人材育成だといえる。2000年のNPO法制定から18年が経過しようとしている現在、世代交代が課題となっている団体が少なくない。創業者である代表理事から、次の世代へのバトンタッチがなかなか出来ない団体が多いと聞いている。かかる状況では人材育成は急務であり、腰をすえて取り組まねばならない問題でもあるだろう。収穫が必要なのは論を俟たないが、土づくりも、だ。


農業でいえば土づくりや種蒔きばかりをやっている団体を私はいくつか知っている。こういった団体にはあまりマスコミは反応しないし脚光を浴びることが少ない。相対的に地味な「アンサングヒーロー」だ。だが私は種蒔きこそがもっとも根源的な活動だと考える。私自身もこういった団体で働き、代表の慧眼に深く感銘を受けたことがある。残念ながら恩を返すことができていないが、まあそのあたりは織り込み済みで、私の成長を寛大に見守ってくれているのだと勝手に解釈している。


何度も確認しておくが、私は成果が不要だと主張するつもりはない。それはそれで重要だ。だが成果同様に、時としてそれ以上に重要な何かを同財団は見落としていなかっただろうか。


農業においてどれだけ丹精込めて育てたとしても、それはすぐに収穫という形で返礼をもたらしてくれるとは限らない。しかしだからと言って収穫ばかりに躍起になれば、土壌は痩せ細り、優良な品種は失われるかもしれない。


同財団においてこのような意識が醸成されており、各方面のステークホルダーにはもとより職員に対しても懐の深い対応ができていたならば、このような事件は起こらなかっただろう。私は同財団に対して、アンサングヒーローとしての活動のあり方も模索して欲しいと心から願っている。


先輩方とは別の角度から(ピンと外れな?)論じてみた。正鵠を射ているかどうかは分からないが、外れていたとしても「間違った道が発見できた」ということ。それはそれで一定の意義はあると勝手ながら考えている。